2014年03月29日
祝辞
今年度ももう終わります。
先日の卒園式。祝辞として活字にしたものをご紹介させていただきます。
平成25年度の、ちびはる保育園卒園児保護者のみなさま、本日はご卒園おめでとうございます。
また、在園児保護者のみなさま、本日はご出席頂き誠にありがとうございます。
本日の喜びの日に、私がお伝えしたいことを文章にいたしました。
祝辞としては、あまりに個人的なものではありますが、私からの最後のメッセージとしてご拝読頂ければ幸いです。
私の娘が、先日特別支援学校小学部を卒業しました。
娘は出産時のトラブルで、二日市の産婦人科から聖マリア病院に運ばれ緊急帝王切開。
1300gで生まれ、その後そのまま院内感染で900gまで落ち、あらゆる手を尽くし、手が尽き、別室に移動させられ「観察治療」という、いわゆる死を待つだけの時間を医者に言い渡されました。保育器の中にいる娘の小さな小さな体に何もしてあげられることがない親の無力感。
しかしそこから何かが起き、現在に至ります。
特別な宗教観はないのですが、出産時の手術中はソファーに座って待つことがどうしてもできず、聖マリア病院の壁のあちこちに飾ってある聖マリアを描いた絵の前に座り泣きながら祈ったことも覚えています。いろいろな方から「大丈夫ですか」とお声をかけていただいたのですが、それを鬱陶しく感じてしまうくらい必死に祈っていました。実際、祈る以外にできることもありません。
現在12歳。重度の脳性麻痺で、歩くことも話すこともできません。毎日の入浴介助も体重増加とともにますます大変になってきました。「パパ」とも言わないですし、パパなる存在をどれだけ認識できているかどうかもわかりません。
でも今でも当時のこの体験は思い出します。
そして、月並みではありますが「どうであれ、生きていてくれる」という喜びを感じさせます。
時々目が合って、柔らかく笑ってくれるときがあります。
また、夜中に目を覚ました娘がハイハイで近づいてきて、私を見て安心したような表情で再び眠ることがあります。
その時に感じる親としての感覚は、私がここで言葉にしなくてもご想像つくものだと思います。ここでは便宜的に「親限定の幸福感」と呼びましょう。
今日は卒園式。
日常とは違い、「親限定の幸福感」も大いに感じてもらえるのではないでしょうか。
それでももしかしたら「ちゃんと証書はもらえるだろうか」「他の子が出来て、うちの子だけが何か失敗しないだろうか」「他の子と比べて、うちの子は立派だろうか」という思惑が(親として当然の思惑ですが)頭の中にあるようでしたら、今日は全部どこかの棚の上に置いておきましょう。
「どうであれ、生きていてくれる」幸せ。
「そして、わが子なりに一歩ずつ成長している」幸せ。
「わが子が一番大好き!」と思う親としての自分の気持ち。その気持ちだけに素直になって、子どもからの「パパ、ママ大好き!」の気持ちを抱きしめてあげてください。
「親限定の幸福感」。
それは日常にきっとたくさんあります。ただ、当たり前すぎて意識できなくなっていたり、忙しすぎて見過ごしているだけなのでしょう。
私がここでお伝えしたいのは、ここまで育児とお仕事とを頑張ってこられた保護者の方々への精一杯のねぎらいと、今後のエール、そして私が娘を通して学んだ「わが子の出来不出来や比較で感じる幸せではない、もっと深いレベルにある『親が素直に感じるわが子への理屈なき愛情』を意識して、もっと日常的に幸せを感じあいっこしましょう、ということです。
もちろん私に言われなくても感じられている方々も多いでしょう。しかし、幸せは意識しないと日常に埋もれてしまいがちなのも事実だと思います。
最後に。
私が好きな中村天風さんの言葉をご紹介いたします。
感謝するに値するものがないのではない。
感謝するに値するものを、気が付かないでいるのだ。
船に乗っても、
「もう波が出やしないか」
「嵐になりゃしないか」
それとも「この船が沈没しやしないか」と
船のことばかり考えていたら、
船旅の愉快さは何もなかろうじゃないか。
人生もまたしかりだよ。
先日の卒園式。祝辞として活字にしたものをご紹介させていただきます。
祝辞
ちびはる保育園 園長 杉原伸介
平成25年度の、ちびはる保育園卒園児保護者のみなさま、本日はご卒園おめでとうございます。
また、在園児保護者のみなさま、本日はご出席頂き誠にありがとうございます。
本日の喜びの日に、私がお伝えしたいことを文章にいたしました。
祝辞としては、あまりに個人的なものではありますが、私からの最後のメッセージとしてご拝読頂ければ幸いです。
私の娘が、先日特別支援学校小学部を卒業しました。
娘は出産時のトラブルで、二日市の産婦人科から聖マリア病院に運ばれ緊急帝王切開。
1300gで生まれ、その後そのまま院内感染で900gまで落ち、あらゆる手を尽くし、手が尽き、別室に移動させられ「観察治療」という、いわゆる死を待つだけの時間を医者に言い渡されました。保育器の中にいる娘の小さな小さな体に何もしてあげられることがない親の無力感。
しかしそこから何かが起き、現在に至ります。
特別な宗教観はないのですが、出産時の手術中はソファーに座って待つことがどうしてもできず、聖マリア病院の壁のあちこちに飾ってある聖マリアを描いた絵の前に座り泣きながら祈ったことも覚えています。いろいろな方から「大丈夫ですか」とお声をかけていただいたのですが、それを鬱陶しく感じてしまうくらい必死に祈っていました。実際、祈る以外にできることもありません。
現在12歳。重度の脳性麻痺で、歩くことも話すこともできません。毎日の入浴介助も体重増加とともにますます大変になってきました。「パパ」とも言わないですし、パパなる存在をどれだけ認識できているかどうかもわかりません。
でも今でも当時のこの体験は思い出します。
そして、月並みではありますが「どうであれ、生きていてくれる」という喜びを感じさせます。
時々目が合って、柔らかく笑ってくれるときがあります。
また、夜中に目を覚ました娘がハイハイで近づいてきて、私を見て安心したような表情で再び眠ることがあります。
その時に感じる親としての感覚は、私がここで言葉にしなくてもご想像つくものだと思います。ここでは便宜的に「親限定の幸福感」と呼びましょう。
今日は卒園式。
日常とは違い、「親限定の幸福感」も大いに感じてもらえるのではないでしょうか。
それでももしかしたら「ちゃんと証書はもらえるだろうか」「他の子が出来て、うちの子だけが何か失敗しないだろうか」「他の子と比べて、うちの子は立派だろうか」という思惑が(親として当然の思惑ですが)頭の中にあるようでしたら、今日は全部どこかの棚の上に置いておきましょう。
「どうであれ、生きていてくれる」幸せ。
「そして、わが子なりに一歩ずつ成長している」幸せ。
「わが子が一番大好き!」と思う親としての自分の気持ち。その気持ちだけに素直になって、子どもからの「パパ、ママ大好き!」の気持ちを抱きしめてあげてください。
「親限定の幸福感」。
それは日常にきっとたくさんあります。ただ、当たり前すぎて意識できなくなっていたり、忙しすぎて見過ごしているだけなのでしょう。
私がここでお伝えしたいのは、ここまで育児とお仕事とを頑張ってこられた保護者の方々への精一杯のねぎらいと、今後のエール、そして私が娘を通して学んだ「わが子の出来不出来や比較で感じる幸せではない、もっと深いレベルにある『親が素直に感じるわが子への理屈なき愛情』を意識して、もっと日常的に幸せを感じあいっこしましょう、ということです。
もちろん私に言われなくても感じられている方々も多いでしょう。しかし、幸せは意識しないと日常に埋もれてしまいがちなのも事実だと思います。
最後に。
私が好きな中村天風さんの言葉をご紹介いたします。
感謝するに値するものがないのではない。
感謝するに値するものを、気が付かないでいるのだ。
船に乗っても、
「もう波が出やしないか」
「嵐になりゃしないか」
それとも「この船が沈没しやしないか」と
船のことばかり考えていたら、
船旅の愉快さは何もなかろうじゃないか。
人生もまたしかりだよ。